1222. 2.16 (貞応元年) | 日本 | 日蓮大聖人 御生誕 |
1253. 4.28 (建長5年) | 安房国 (千葉県南部) 清澄寺 | 日蓮大聖人 立宗宣言 |
1257.8. (正嘉元年) | 鎌倉 |
鎌倉一帯を大規模な震災が襲う
(「正嘉(しょうか)の大地震」) |
1260. 7.16 (文応元年) | 日本 |
日蓮大聖人が国主諌暁の書である「立正安国論」を
時の最高権力者・北条時頼に提出
(日蓮大聖人 39歳)
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1260. 8.27 (文応元年) | 鎌倉 |
日蓮大聖人 松葉ヶ谷の法難
(鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を、武装した念仏者らが襲った事件)
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1261.5 (弘長元年) | 鎌倉 |
日蓮大聖人 伊豆流罪
(念仏者の讒訴によるもの)
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1264.11.11 (文永元年) | 日本 |
日蓮大聖人 小松原の法難
(安房(あわ)国(千葉県南部)長狭(ながさ)郡(ごおり)東条郷(とうじょうのごう)の 地頭 東条景信(かげのぶ)らに襲撃され、頭(こうべ)に傷を受け、左手を折られた。)
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1265.5月 ~6月頃 | フィレンツェ | ダンテ生誕 |
1268. () | 日本 |
蒙古から、鎌倉に国書が届く。 |
1271.9.12 (文永8年) | 日本 |
日蓮大聖人 竜の口の法難
(幕府の権力者らが策謀をめぐらし、鎌倉の竜の口で首を斬ろうとした事件 だが、失敗し、幕府は、大聖人を佐渡流罪にした。)
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1271.10.10 (文永8年) | 日蓮大聖人 佐渡に向けて出発 |
1272.2.11 (文永9年) | 佐渡 |
過去の宿縁追い来たって
今度日蓮が弟子と成り給うか
釈迦多宝こそ御存知候め
「在在諸仏土常与師倶生」
よも嘘事候はじ
日蓮大聖人
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(「生死一大事血脈抄」(御書 1338ページ))
|
1274. 3.13 (文永11年) | 日蓮大聖人 佐渡の一谷(いちのさわ)を出発。 |
1274. 3.26 (文永11年) | 日蓮大聖人 鎌倉に到着。 |
1276.1.11 (建治2年) |
(「清澄寺大衆中」 (御書 893ページ))
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1279. (弘安2年) |
熱原の法難
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創価学会学会歌
熱原の三烈士
作詞 : 山本伸一
作曲 : 杉野泰彦
歌詞 :
富士の裾野の朝ぼらけ
若葉の露は彩なして
潤井の川のせせらぎに
雲雀(ひばり)の声にも児は舞いて
かくものどかな今朝の村
時末の世か水濁り
仏法(おしえ)の乱れは麻に似て
民の恨みも悲しけれ
熱原の郷百姓に
若き丈夫愁いあり
その名熱原神四郎
弟弥五郎 弥六郎
求道(もと)めし日々は浅けれど
清き血潮の布教(みち)進む
栄えの生命の法讃歌
誉れの優勢 口惜しさに
膏油(こうゆ)煮え立ち喘ぎ立ち
障魔の権力(ちから)は卑劣にも
和合の綱に手を伸ばし
攪き乱さんと仇心
諸行無常の鐘やみて
常楽我浄の風吹けば
ああ神四郎その兄弟(ともら)
淋しく法戦消え去りぬ
繁れる法庭(にわ)の杉木立
生死流転の神四郎
桜の花に吹く風に
あれよ広布の鑑よと
その名かんばし熱原の
烈士の命 誉れあり
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1279.10.12 (弘安2年) |
日蓮大聖人 一閻浮提(いちえんぶだい)総与(そうよ)の大御本尊を御図顕。 |
1282.10. 8 (弘安5年) | 日蓮大聖人 滅不滅の御入滅
(弟子・日興上人:37歳(数え年))
|
1284.10. 8 (弘安7年) | 師匠・日蓮大聖人の3回忌(弟子・日興上人以外の五老僧 日蓮大聖人の墓所を訪れず) |
1285. (弘安8年) | 五老僧が「天台沙門(天台の一門)」を名乗り出す。
日蓮大聖人の御弟子六人の中で、五人は一同に、
大聖人の御名前を改めて天台の弟子と号し、
自らの住坊を破却されようとする時、天台宗を行じて
祈祷をするという申状を捧げることによって
破却の難を免れたのである
日興上人
|
|
1285.冬 (弘安8年) | 霜月騒動 (平左衛門尉が安達泰盛をクーデターにより滅ぼす) |
1293. (正応6年) | 平左衛門尉一族が、執権・北条貞時に滅ぼされる |
| 1321.9月 | ラヴェンナ | ダンテ 逝去 |
1333. 2. 7 (正慶2年) | 日本 |
日興上人 逝去
未だ広宣流布せざる間は身命を捨て、
随力弘通(ずいりきぐつう)を致す可き事
日興上人
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(日興遺誡置文「二十六箇条」御書 1618ページ)
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1336. (建武3年) | 日本 | 楠木正成(くすのきまさしげ)が足利尊氏(あしかがたかうじ)の上洛を防ぐため湊川の戦いに赴く |
| 1513.9.25 | パナマ |
バルボアがパナマの地の壮大な展望広がるクアレクアーの山頂に立つ。
彼方に銀色に輝く海原を眺望。太平洋を発見 |
1560.5.19 (永禄3年) | 日本 |
「桶狭間の戦い」
(織田信長が今川義元の大軍を破る) |
1561.9. (永禄4年) | 日本 |
「川中島の戦い」
(武田信玄と上杉謙信との戦い) |
1572.12 (元亀3年) | 日本 |
「三方ケ原の戦い」
(徳川家康が、武田信玄に完敗)
................。
家康にとって、生涯ただ一度の負け戦 - それは、信玄と覇を争った元亀3年(1572年)12月の三方ケ原の戦いであった。
兵力の上でも劣っていた家康の軍は、周到な計画と万全の態勢で臨んだ武田軍に完敗。敗走中に家康が失禁したとのエピソードも伝わるなど
、完膚なきまでの敗北であった。
噂以上の信玄の兵略に、家康は舌を巻いたに違いない。
のちに、かの勝海舟が "信玄の兵法は、欧州の戦術と酷似している" といったほど、その戦法は優れたものだった。
以来、家康は信玄の軍学を自らのものとしながら、戦国の世を勝ち抜き天下をとった。そして265年にも及ぶ徳川幕府の基(もとい)を
築いたのである。
敗北が、次の勝利への因となる場合がある。反対に、勝利の時に敗北の原因をつくることも多い。
家康は、三方ケ原の戦いで信玄に敗れた。しかし、そこから信玄の兵法を学び、最後は天下人としての大勝利を得た。
つまり、自らの大敗を、より大きな勝利への原動力とすることができた。
ここに、家康の指導者としての度量の大きさがうかがえる。
...................。
- 中部代表記念幹部会での池田先生のスピーチより -
(昭和62年)
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1573. (天正元年) | 日本 |
武田信玄 病死(53歳)
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1575.5. (天正3年) | 日本 |
「長篠の戦い」
上洛の途次にあった、武田勝頼の率いる武田軍が、三河長篠で、織田信長と徳川家康の連合軍と
戦い、大敗を喫する。そのさい、信長が鉄砲による攻撃を巧みに行い、 騎馬と長槍の武田軍を徹底的に破る。
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| 1596.3.31 | フランス |
デカルト 生誕
彼が生まれたのは、一五九六年三月三十一日、フランス中部・トゥレーヌ州の小さな町ラ・エーである。 父は高等法院の評定者(裁判官)で、デカルトは、その次男として生まれた。しかし、母は、彼を出産して数日後に他界。一説によれば、翌年ともされるが、ともあれ、彼は幼くして母を失った。
古今東西、幼くして、母親を亡くした偉人は多い。トロイ遺跡の発掘で有名なシュリーマンは、九歳で母を失った。
また、主著「種の起源」で十九世紀の科学界に大変革をもたらしたダーウィンは八歳、
更にリンカーンは九歳、キュリー夫人は十一歳、
イギリスの哲学者で平和運動家でもあったラッセルは二歳で、
それぞれ母親を亡くしている。
- 第7回未来会総会での池田先生のスピーチより -
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| 1749. 8.28 | フランク フルト | ゲーテ 生誕 |
| 1755. | モスクワ |
モスクワ大学 創立
戦いの数と、おさめた勝利の数を等しくして、生涯を戦場に生きる戦人(いくさびと)は、大いなる賞讃に値(あたい)する。
モスクワ大学 創立者 ロモノーソフ
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| 1770. | ドイツ | ベートーヴェン 生誕 |
| 1775.4. | ボストン近郊 |
ボストン近郊(コンコード、レキシントン)で植民地軍とイギリス正規軍との戦いが始まる
ミニットマン達が先駆を切って出動
.........。「自由への戦い」への火ぶたを切ったミニットマン。
そのほとんどは10代、20代の青年であった。
一つの資料を紹介すれば、コンコードにいた約百人のミニットマンの年齢は「21歳未満」が30%、
「21~24歳」が28%、「25~29歳」が14%だったという。 すなわち10代、20代だけで70%以上を占めていたのである。
...........................。
- 第1回NSA各部合同研修会での池田先生のスピーチより -
|
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| 1776.7.4 | フィラデルフィア |
アメリカの「独立宣言」が採択 |
| 1787. | フィラデルフィア |
アメリカ合衆国「憲法」が発布 |
| 1789.7.14 | フランス |
パスチーユ牢獄の解放から、フランス革命が始まる
..........................。貧しい小間物商であったルグロ夫人は、平凡な日々の暮らしであった。しかし、
彼女はある日、偶然にある一通の手紙を拾う。...........................。" どうしてあげられるか " " こうしてあげたい " と一歩行動を起こすことのできる人は
あまりにも少ない。ましてや、その行動が多くの苦難を伴い、自分の立場を
危うくするものであればなおさらである。
しかし、ルグロ夫人は、その苦難の一歩を踏み出した。
...........................。
- 東北・各部合同研修会での池田先生のスピーチより -
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| 1808. | ウィーン | ベートーヴェン第5交響曲「運命」が初演 |
| 1809.2.12 | アメリカ |
アメリカの第16代大統領 エイブラハム・リンカーン 生誕
|
| 1821.4.9 | フランス |
シャルル・ボードレール生誕
姿は素朴、顔はやさしく
水の流れるように透明で また清らかで
大空の青さの如く 小鳥の如く 花の如く
無関心でありながら
全てのものに 薫(かお)りと 歌と 快い熱とを灑(そそ)ぐ
神聖な青春に
フランスの詩人 シャルル・ボードレール
|
(創価中学・高校第17回卒業式で創立者 池田先生が紹介された一節)
|
| 1823.6. | 師匠・ゲーテと弟子・エッカーマンが出会う
(ゲーテ73歳 エッカーマン30歳) |
1828. 9.9 (ユリウス暦 8.28) | ロシア |
文豪 レフ・トルストイ 生誕(トゥーラ州 ヤースナヤ・ポリャーナ) |
1830. 8. (天保元年) | 日本 |
幕末の思想家 吉田松陰 生誕
一言するときは必ず温然(おんぜん)和気(わき)婦人(ふじん)好女(こうじょ)の如し。是れが気魄(きはく)の源(みなもと)なり
幕末の思想家 吉田松陰
|
(山口県教育会編「吉田松陰全集第9巻」岩波書店)
|
| 1835.11.25 | スコットランド |
鉄鋼王 アンドリュー・カーネギー 生誕
この人物は何も内容がない。なにもせず、ただ偶然の機会によって、借り物の羽根を頭に飾って、
威張って闊歩しているにせ物なのだ
鉄鋼王 アンドリュー・カーネギー
|
(坂西志保訳「カーネギー自伝」中公文庫)
大統領は政治家としてアメリカの最高の地位にある人だし、君は職工としてアメリカ最高の地位にある人だ。
同一の待遇を受けるのに何の遠慮がいろう。
鉄鋼王 アンドリュー・カーネギー
|
(「下村湖人全集5」国土社)
|
1839. 8. (天保10年) | 日本 |
高杉普作 生誕 |
| 1847.2.11 | アメリカ |
発明王 トーマス・エジソン 生誕 |
1857.秋頃 (安政4年) | 日本 |
師匠・吉田松陰(しょういん)の開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)に、弟子・高杉普作(しんさく)が入門。
(吉田松陰:28歳 高杉普作:19歳) |
1859.7 (安政6年) | 江戸 |
吉田松陰が投獄される。 |
1859. (安政6年) | 日本 |
獄中の師匠・吉田松陰をお守りせんと、弟子・高杉普作が一心不乱に奮闘。 |
1859.10 (安政6年) | 萩 |
高杉普作が、藩命(はんめい)により萩へ向かう。 |
1859. (安政6年) | 江戸 |
吉田松陰 刑死 (享年30歳) |
| 1859. | アメリカ | ジョン・デューイ生誕 |
1863. (文久3年) | 若林村 |
師匠・吉田松陰の墓を、弟子・高杉普作が、罪人用の小塚原から、 若林村(現在の世田谷区内)
のよき地に改葬。
|
1864.3. (元始元年) | 日本 |
高杉普作が、師匠・吉田松陰と同じ「野山獄(のやまごく)」に投獄される。
先生を
慕(した)うて漸(ようや)く
野山獄
弟子・高杉普作
|
|
1864. (元始元年) | 下関 |
高杉普作が、わずか80人ほどの無名の兵士たちを率いて「奇兵隊」を結成。
|
| 1865. | フィレンツェ | ダンテ生誕600年祭。 |
1866. (慶応2年) | 日本 |
高杉普作の陣頭指揮の中、長州は幕府軍に勝利。明治維新へ。
|
1867. (慶応3年) | 日本 |
気象学者 野中(のなか)到(いたる) 生誕
|
1867.4. (慶応3年) | 日本 |
高杉普作 病死。(享年29歳)
|
1868. (慶応3年) | 日本 |
明治維新
|
| 1867.11, 7 | ワルシャワ | マリー・キュリー 生誕 |
1871. 6. 6 (明治4年) | 日本 | 創価教育の父 牧口常三郎創価学会初代会長 生誕 |
1875.4.23 (明治8年) | 日本 | 日本を代表する女性画家、上村(うえむら)松園(しょうえん)画伯 生誕 |
| 1880. 6.27 | ヘレン・ケラー 生誕 |
| 1887. | ヘレン・ケラーがサリバン先生と出会う |
1889. (明治22年) | 牧口先生が北海道尋常師範学校に「第一種生」として入学 |
1893. (明治26年) | 牧口先生が北海道尋常師範学校の訓導(教師)に。 |
1894.11.27 (明治27年) | 和歌山県 |
経営の神様・松下幸之助先生 生誕 |
1895. 2. (明治28年) |
気象学者 野中到が厳冬の富士山の初登頂に成功。
(不可能を可能にした登山史の大記録) |
1895. 7.26 (明治28年) | ピエールとマリーが結婚 |
1895.夏 (明治28年) |
気象学者・野中到が私財をなげうって、富士山頂に小さな観測所(六坪)を建て、
危険を承知で、冬の気象観測を開始。
高層気象観測は至難の業(わざ)である。しかし、わずかなりとも、この学術の
進歩のため、国のための助けとなりたい。
小さな観測所を建て、烈(はげ)しい風と堅き氷のなか、観測を
試みて、いささかでも、志(こころざし)ある人々の奮起を促したい
気象学者 野中到
|
|
1895.10. (明治28年) |
野中千代子(気象学者・野中到婦人)が、富士山頂に登頂。
夫妻による歴史的な気象観測が始まる。 |
1896. (明治29年) | 牧口先生が、文部省検定試験の地理科に合格 中等学校地理科の教員免許状を取得 |
1898. (明治31年) | 詩人 土井晩翠 作詩「 星落秋風五丈原」が発表 |
1900. 2.11 (明治33年) | 石川県 加賀市 | 戸田城聖第2代創価学会会長 生誕
|
1900. 7.4 (明治33年) | 石川県 加賀市 |
日本の物理学者 中谷(なかや) 宇吉郎(うきちろう)博士 生誕
先生(恩師の寺田(てらだ)寅彦(とらひこ)博士)の如き人こそ
われ等が同時代に生れた光栄を喜ぶべき第一の人であろう
日本の物理学者 中谷宇吉郎博士
|
(「中谷宇吉郎随筆選集第1巻」朝日新聞社)
|
| 1902. | ピエールとマリーが、ラジウム塩の抽出に成功 |
1903. (明治33年) | ピエールとマリーが、フランスの物理学者アンリ・ベックレルとともにノーベル物理学賞 受賞 |
1903.12.17 (明治33年) | アメリカ |
ライト兄弟が、人類で初めて動力(エンジン)付飛行機による有人飛行に成功。
..................................。ライト兄弟の兄ウィルパーの言葉を紹介したい。 「一人の人間が、直接できることには限りがある。
しかし、一人が10人を奮い立たせ、共に行動してくれるようになれば、それは、すでに偉大なことを成し遂げたことになる」..................................。
- 新時代第34回本部幹部会第34回SGI総会での池田先生のスピーチより -
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1903.6.22 (明治33年) | 日本 | 作家・山本周五郎(しゅうごろう) 生誕 |
1903.10.15 (明治33年) | 日本 | 牧口常三郎先生が「人生地理学」を出版。 |
| 1905. | アルバート・アインシュタイン博士が「特殊相対性理論」を発表 |
1905. (明治38年) | 東京 |
..................................。1905年(明治38年)、孫文先生は、ここ東京で、水の流れの如く、静かに、また たゆみなく、人材を結集し、
歴史的な中国革命同盟会を結成された。革命の一つの原点を日本でつくられたのである。
その同じころ、若き牧口先生は、中国の留学生のための学校「弘文(こうぶん)学院」で教鞭をとっておられた。牧口先生は、孫文先生より5歳若く、この時、34歳。この学校には孫文先生の同盟会に身を投じた青年も学んでいた。
牧口先生の授業に感銘した留学生が、のちに「人生地理学」の講義を翻訳して中国で出版したというエピソードも伝えられている。..................................。
- 中山大学名誉教授称号受章式での池田先生のスピーチより -
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| 1909.2.28 | 富山県 | 東京富士大学創立者 高田勇道先生のお誕生日 |
1912. (大正元) | 日本 | 牧口先生が、「教授の統合中心としての郷土科研究」を発刊 |
1913.2.4 (大正2) | アメリカの人権の母 ローザ・パークスさんのお誕生日 |
1913. (大正2) | 牧口先生が、東京市東盛尋常小学校校長兼下谷第一夜学校校長に就任 |
1913. (大正2) | アフリカ |
シュバイツアー博士が、医師・伝道師としてアフリカに渡る。
............。彼(シュバイツアー博士)は、いつも「自分がどんな病気にかかろうと、一番いい薬は、
すべき仕事があるという自覚にユーモアの感覚を融合したものである」と信じて
いたという。
- 第13回転輪会総会での池田先生のスピーチより -
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1915. (大正4) | 池田先生の、お父さんとお母さんが結婚。 |
| 1916. | アルバート・アインシュタイン博士が「一般相対性理論」を発表 |
1919. (大正8) | 牧口先生が、西町尋常小学校校長に就任 |
1920. (大正9) | 師匠・牧口先生と弟子・戸田先生が、出会う。 |
1920.4.11 (大正9) | 日本 |
日に日に向上して、心に笑(ほほえ)む可(べ)きのみ
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運命も自己(じこ)自(みずか)ら 開拓(かいたく)せざれば、鍵(かぎ)開(ひら)きて来(きた)る可(べ)き筈(はず)はあらざるなり
(自分が心から納得し、満足できるよう、日々成長していこう。わが運命の扉は、自分自身が切り開かなければ
決して鍵が開くことはない。)
戸田先生(20歳)
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| 1921. | アルバート・アインシュタイン博士が、ノーベル物理学賞 受賞 |
1922.11.19 (大正11) | 師匠・牧口先生と弟子・戸田先生が、アインシュタイン博士の「相対性理論」の講演に参加(慶応大学) |
1922.12 (大正11) | 宮城県 | アルバート・アインシュタイン博士 土井晩翠 会談。 |
| 1922. | キュリー夫人が、医学学士院(フランス)の女性会員に。 |
1925. (大正15) | 思想・信教の自由を剥奪した稀代の悪法「治安維持法」が制定 |
1928. 1. 2 (昭和3年) | 池田先生のお誕生日 |
1928. 6. (昭和3年) |
牧口先生が、日蓮大聖人の仏法に巡りあい入信。
戸田先生も入信。 |
1929.1.15 (昭和4年) | アトランタ |
アメリカ公民権運動の指導者 マーチン・ルーサー・キング博士 生誕
(アトランタ市) |
1930.11.18 (昭和5年) 火曜日 快晴 | 東京 |
「創価学会 創立の日」「創価教育原点の日」
創価の父 牧口常三郎初代会長 創価教育学会(のちの創価学会)創立 牧口常三郎先生の教育思想を集大成した『創価教育学体系』第1巻が発刊
発行所 創価教育学会
| 戸田先生(弟子) | 「牧口先生の教育学は何が目的ですか?」 |
| 牧口先生(師匠) | 「価値を創造することだ。」 |
| 戸田先生(弟子) | 「では先生、創価教育と決めましょう。」 |
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|
1932. (昭和7年) | 日本 |
戸田先生が、月刊の教育雑誌「新教材集録(しんきょうざいしゅうろく)」を創刊。 |
1932. 6.15 (昭和7年) | スコットランド |
ヘレン・ケラー女史に、グラスゴー大学から名誉博士号が授与(ビュート・ホール)。 |
1933. (昭和8年) | アルバート・アインシュタイン博士が、アメリカへ亡命 |
| 1934. | 中国 |
「長征」
(長征は、1934年から36年までの2年間、紅軍が行った戦略上の大遠征。
「万里長征」ともいわれ、のちに20世紀の奇跡とたたえられた。)
...........................。中国の「長征(ちょうせい)」について、周恩来総理の話を紹介したい。
人間の2本の足で12,500キロ(25,000華里)を歩いた「長征」。何と、アメリカ横断して往復する距離になる。
それに比べたら、日本のどんな地域も「広すぎる」とか、「遠すぎる」とか言えない。
長征の行軍は、過酷を極めた。何十機もの飛行機に連日、爆撃される。
地上でも、敵の大軍に追われ、包囲される。
病気にも。飢えにも苦しめられる。
だが、「歩き通す」ほかなかった。
「戦う」しかなかった。
「前進する」しかなかった。
何が起ころうと、前進また前進し続けて、勝利したのである。
途中でやめたら、絶対に勝利はない。
しかも、ただ歩いただけではない。
この間に通った広大な十一の省、2億の人民を、着実に味方にしていった。
話し合い、自分たちの理想を教えながら。
派手な姿は、ひとつもなかった。
静かに山々を越え、村々を回りながら、未来の「勝利」の種を植えていったのである。
.........................。
池田先生のスピーチより
(1996,10.25)
|
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1934. (昭和9年) | 日本 | 池田先生が、羽田の第二尋常小学校へ入学。 |
1934. 7. 4 (昭和9年) | キュリー夫人 逝去 |
1935. (昭和10年) | 日本 |
「新教材集録」が「新教(しんきょう)」と改題され、創価教育学会の機関紙に。 |
1935. (昭和10年) | アメリカ | デューイ協会 創立 |
1938.6.26 (昭和13年) | イギリス |
ウィンストン・チャーチル卿が「泣き杉」を植樹。
(現・タプローコート総合文化センターの庭園に、牧口常三郎先生の 「正義桜」とともに風雪に負けぬ不屈の根を張っている。)
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1939. (昭和14年) | ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵入し、第2次世界大戦が勃発。 |
1939.初春 (昭和14年) | 日本 |
池田喜一(きいち)氏 (池田先生の長兄(ちょうけい)) が出征。
出立を前に、「家族との面会」が東京駅の近くの広場でなされる。
(戦地である中国へ行く総勢二、三百人ほどの兵士たち)
池田先生のお母さんが、「池田家の海苔」を巻いたおにぎりをたくさん用意されており、
見送りのない百名近くの兵士の方々に「こちらへいらしてください。 ご一緒にどうぞ!」と親しく声をかけられる。
遠慮がちな兵士たちに、池田先生(当時 11歳) が、走っていかれ、おにぎりを差し上げられる。
あの人たちは若いのに 皆 お父さん お母さんを悲しませてしまって 可哀想だ 可哀想だ
池田 一(いち) (池田先生の母堂)
|
|
1940.5 (昭和15年) | 英国 |
ウィンストン・チャーチル首相 就任
われわれの目的はなんであるかとお尋ねになるならば、私は一言でその問に答えましょう。
勝利、この二字であります。
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
朝は必ず巡ってきます。勇敢で、真実である者の上には、
太陽は必ず輝きましょう。
ウィンストン・チャーチル首相
|
(ロバート・ペイン著、佐藤亮一訳「チャーチル」文化放送)
|
1940.6 (昭和15年) | 英国 |
フランスの降伏によって欧州の戦況が、イギリスに不利となる。
我々は絶対に屈服しない。
最後まで勝利に向かって前進するのみだ。
ウィンストン・チャーチル首相
|
|
1941. (昭和16年) | 日本 |
大正15年 制定の 思想・信教の自由を剥奪した稀代の悪法「治安維持法」が改定 |
1941.7. (昭和16年) | 日本 |
池田喜一(きいち)氏 (池田先生の長兄) が一時帰宅。
日本軍はひどすぎる。中国の人たちが あまりにも可哀想だ!
池田喜一
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1941. 7.20 (昭和16年) | 日本 |
機関紙「価値創造」創刊。 |
1941. 8. (昭和16年) | 日本 |
日蓮正宗宗門が、御書の刊行を禁止する院達を出す。 |
1941. 9. (昭和16年) | 日本 |
日蓮正宗宗門が、宗務院教学部長名で計14カ所に及ぶ御文の削除を通達 |
1941.12.8 (昭和16年) | アメリカ | 真珠湾攻撃。 |
1942. 5. (昭和17年) | 日本 | 「価値創造」廃刊。 |
1942.8.24 (昭和17年) | 日本 |
私の信仰は天下の正義である。この信仰の「信」「行」「学」を
私は師匠である牧口先生のおかげで得(え)ることができた。
ゆえに私は、若人(わこうど)の情熱を失(うしな)わないのだ。
戸田先生(43歳(数え年))
|
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1943. (昭和18年) | 日本 |
高田先生が、「東亜学院」(のちの東京富士大学)を創立
(高田先生:34歳)
暴力をもって人を導くことはできない。
学問の光をもって道標とせよ
高田先生
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1943. 5. 2 (昭和18年) | 東京 |
西神田の教育会館に700人が集って
創価教育学会としての最後の総会
牧口先生が「宗教の研究法」と題し講演
|
1943.6. (昭和18年) | 日本 |
一宗が滅びることではない。
一国が滅びることを、嘆くのである。
.............................。
今こそ国家諌暁の時ではないか!
何を恐れているのか!
牧口常三郎先生
|
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1943. 7. 6 (昭和18年) |
牧口初代会長、戸田理事長ら、 思想・信教の自由を剥奪した稀代の悪法・ 治安維持法違反、不敬罪により
逮捕 投獄される。
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1944. 7. 4 (昭和19年) | 日本 |
牧口先生が「取り調べ調書」を自ら書き上げ、判事に渡したことを手紙に綴られた日。 |
1944. 7.18 (昭和19年) | 日本 | 東条内閣 総辞職 |
1944. 8.31 (昭和19年) | 中国 |
牧口洋三(牧口先生の三男)氏 病死(享年37歳) |
1944.10.11 (昭和19年) |
牧口先生が、御家族からの手紙(10月5日付)で、三男・洋三氏の逝去をお知りになられた日。 |
1944.10.13 (昭和19年) |
洋三戦死の御文、十一日に(中略)拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ。
.............................。
カントの哲学を精読(せいどく)している。
百年前、及びその後の学者共が、望んで、
手をつけない「価値論」を私が著(あら)わし、
しかも、上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に
実証したのを見て、
自分ながら驚(おどろ)いている。
これ故、三障四魔が粉起(ふんき)するのは当然で、
経文通りです。
牧口先生
|
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1944.11.17 (昭和19年) |
牧口先生が、衣服と頭髪を整えられて病監へ向かわれる。
足元がもつれ、転(ころ)ばれるが、最後まで一人で歩かれる。
ベッドに身を横たえられると、やがて昏睡状態に。
この日 当局は、牧口先生の死期がせまっていることを、先生の自宅に
電報で知らせる。
|
1944.11.18 午前6時過ぎ (昭和19年) 雨 | 東京 |
牧口常三郎初代創価学会会長 大変に安らかな相で、霊山に旅立たれる。
(享年73歳)(巣鴨の東京拘置所)
牧口先生の御遺体が、貞子さんの実家の番頭に背負われ、目白の自宅に運ばれる。
(投獄から1年4カ月)
|
1944.11.20 (昭和19年) |
牧口先生の葬儀が、10人前後の親族・知人が出席し、自宅でひっそりと
営まれる。
牧口先生の殉教に対して、宗門は「獄死(ごくし)」を理由に、先生に 「大居士(だいこじ)」の戒名(かいみょう)を
贈ることを拒否。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1990年(平成2年)4月2日、戸田第2代会長の33回忌の折、牧口先生に「大居士」が贈られた。
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1945. 1. 8 (昭和20年) | 師匠・牧口先生の獄死を、弟子・戸田先生が知らされた日。(創価の師弟の原点の日) |
1945. 1.11 (昭和20年) | ビルマ (現・ミャンマー) |
池田喜一氏 (池田先生の長兄) が戦死。(享年26歳(戦死公報)・正しくは29歳) |
1945. 4. (昭和20年) | 蒲田 |
池田先生のお父さんの家が、国家権力による「強制疎開」で壊される。
(蒲田の糀谷二丁目五四六番地)(大きな庭のある屋敷)) |
1945. (昭和20年) | 大森 |
池田先生のお父さんが、「疎開するための家」を大森の西馬込(池田先生のお母さんの
妹さんのいらっしゃるところ) に作られる。
「疎開するための新しい家」ができ上がったその日の夜、空襲警報が鳴り、あちらこちらで群集が見上げる夜空から
低空飛行の爆撃機B29が、焼夷弾(しょういだん)をばらまき落とす。
何百人もの人々が「わあーわあー」と大声を上げながら逃げ惑う。
このときの大空襲で、西馬込に完成したばかりの、「疎開するための新しい家」が、 直撃を受け 燃え尽きる
|
1945. 7. 3 (昭和20年) 午後7時 |
東京 | 戸田理事長(のちの創価学会第2代会長)豊多摩刑務所を出獄 |
1945. 7.26 (昭和20年) | ポツダム会談 |
1945. 8. 6 (昭和20年) | 日本 | 原子爆弾投下(広島)
|
1945. 8. 9 (昭和20年) | 日本 | 原子爆弾投下(長崎) |
1945. 8.15 (昭和20年) | 日本の敗戦により、太平洋戦争が終結 |
1946.3. (昭和21年) | 日本 |
創価教育学会を「創価学会」と改称 |
1946. 7. (昭和21年) |
「政教分離」の原則は、宗教団体の政治活動を禁止する規定はない。
金森徳次郎(とくじろう) 憲法担当大臣
|
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1946.11.18 (昭和21年) |
牧口先生の3回忌法要
あなた(師匠・牧口先生)の慈悲の広大無辺は、
わたくしを牢獄まで 連れていってくださいました
戸田先生(弟子)
|
|
1947.8.14 (昭和22年) 木曜日 夜 | 東京 大田区 | 師匠・戸田先生と弟子・池田先生が出会う
(戸田先生が「立正安国論」を講義される座談会)
(戸田先生 47歳 池田先生 19歳)
| 池田先生(弟子) | 「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生を
いうのでしょうか」 |
| 戸田先生(師匠) | 「人間の長い一生には、いろいろな難問題が
起きてくる。人間、生きるためには、生死の問題を、どう解決したらいいか............ これだ。
これが正しく解決されなければ、真の正しい人生はない」 |
|
一家のことを、一国のことを、
さらに動乱の世界を考えた時、
私は、この世から、不幸と悲惨をなくしたい。
これを広宣流布という。
どうだ、一緒にやるか!
師匠・戸田先生
|
旅人よ
いずこより来(きた)り
いずこへ往(ゆ)かんとするか
月は 沈(しず)みぬ
夜明け前の混沌(カオス)に
光 もとめて
われ 進みゆく
心の 暗雲(あんうん)をはらわんと
嵐に動かぬ大樹求めて
われ 地より湧(わ)きいでんとするか
弟子・池田先生
(池田先生 19歳)
|
...............。
十九歳の私は
そう心に決意して
師と共に
大闘争を開始した。
権力ではなく民衆を!
暴力ではなく対話を!
狂信ではなく哲学を!
蛮性ではなく文化を!
命令ではなく教育を!
独善ではなく連帯を!
罵声ではなく歌声を!
権威ではなく青年を!
戦争の世の害悪を
一つ一つ大転換しながら
創価の人間主義の光は
今や世界百九十二の国々へ
地域へと広がった。
...............。
池田先生
- 我らは戦う!人権と平和と幸福のために
「忘れ得ぬ 戦時の青春」
2009.2.13 -
より
|
インド共和国初代ネルー首相が、インドの自由の夜明けを宣言
涙と悲惨のあるかぎり、
我らの仕事は終わらないのである。
ゆえに働こう。もっと働こう。
インド共和国初代ネルー首相
|
|
1947. 8.24 (昭和22年) | 東京 | 池田先生が、創価学会に入会。
|
1947. (昭和22年) | 東京 |
大世学院(現・東京富士大学が、「建学の趣旨」を発表
「人道世界の建設」の理想の柱として、「大愛」「正義」「文化」
|
1947. (昭和22年) |
創価学会学会歌
森ケ崎海岸
作詞 : 山本伸一
作曲 : 本田隆美
歌詞 :
岸辺に友と 森ケ崎
磯の香高く 波返し
十九の青春 道まよい
哲学語り 時はすぐ
友は悩めり 貧しけれ
キリストの道 われ行くと
瞳きびしく 月映えて
つよき鼓動に 波寄せり
崩れし土手に 草深く
いかなる虫か 知らねども
今宵は詩歌をつくらんと
楽(がく)平安の おもいあり
されども友は 黙しけん
いかに生なば わがいのち
深園の月に 飛びゆかん
涙を拭い 悲歎あり
友の孤愁に われもまた
無限の願望 人生を
苦しみ開くと 誓いしに
友は微笑み 約しけん
友の求むる 遠き世に
たがうも吾れは 己が道
長歌の舞台 涯(はて)しなく
白髪までも 月語る
君に幸あれ わが友よ
つぎに会う日は いつの日か
無言のうちの 離別旅(わかれたび)
銀波ゆれゆく 森ヶ崎
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1948.4. (昭和24年) | 東京 |
池田先生が、大世学院(現・東京富士大学)に入学
|
1948.12.10 (昭和24年) | 「世界人権宣言」が国連総会で採択
|
1949. 1.3 (昭和24年) | 千代田区 西神田 |
弟子・池田先生が、師匠・戸田先生の経営する出版社「日本正学館」に入社。 (池田先生21歳)
|
1949. 5. (昭和24年) |
池田先生が、冒険少年(のちに「少年日本」と改題)の編集長に就任。
|
1949.7.10 (昭和24年) | 日本 |
機関紙「大白蓮華」創刊
|
1949.10.25 (昭和24年) | 「少年日本」が休刊に。
|
1950. 1. (昭和25年) | 戸田先生宅で、「戸田大学」の個人授業開始。
|
1950. 8.23 (昭和26年) | 戸田先生が専務理事を務める東京建設信用組合が、営業を停止 |
1950. 8.24 (昭和25年) |
...................。「蒸し暑いじゃないか。しばらく歩こう」.............。
「...............。学会もいつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならんな。伸、よく考えておいてくれ」.............。
- 人間革命 第四巻 怒涛 - より
|
(聖教新聞 創刊原点の日)
戸田先生が、創価学会理事長職の辞任を発表。(東京・西神田の学会本部)
それは、伸一の入会三周年の記念日にあたる一九五〇年(昭和二十五年)の八月二十四日、東京・西神田で行われた
法華経講義の終了後のことであった。
戸田は、理事長の辞任を語ったあと、自ら新理事長の人事を発表した。
当時は、会長不在の時代であり、理事長が学会の一切の責任を担っていたのである。
戸田の悲壮な決意を聞いた、伸一の衝撃は大きかった。動揺を隠せなかった。
"創価学会は、そして広宣流布は、どうなってしまうのか......................。"
伸一は戸田のいる部屋を訪れ、これから自分の師匠は、新理事長になるのかを尋ねた。
即座に、戸田の答えが返ってきた。
「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠はぼくだよ」
伸一の全身に、言い知れぬ喜悦がほとばしった。彼の迷いは、ことごとく吹っ切れた。
心は決まった。
創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の「獄中の悟達」にある。法華経に説かれた「在在諸仏土 常与師倶生」(在在の諸仏の土に
常に師と倶に生ず)の文を生命で読んだ戸田の、「われ地湧の菩薩なり」との悟達こそが学会の魂である。その戸田という師に連なる時、
学会は広宣流布を使命とする「創価学会仏(ぶつ)」たりえるのである。
- 新・人間革命(4004) 新世紀 九 - より
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1950.8.29 (昭和25年) |
戸田先生より『君を頼る』との力強き激励を受ける。
誰よりも、信頼し、期待をかけられし自分を、心から歓ぶ。
先生の激励に応え、再び、世紀の鐘を、私が鳴らそう。
先生より離れる者は、離れろ。
若き戦士となって、先生の意志を、私が実現するのだ
- 池田先生の日記より -
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1950. (昭和25年) |
古(いにしえ)の
奇(く)しき縁(えにし)に
仕(つか)えしを
人は変(かわ)れど
われは変らじ
弟子・池田先生
|
|
幾度(いくたび)か
戦(いくさ)の庭(にわ)に
起(た)てる身の
捨てず持(たも)つは
君が太刀(たち)ぞよ
師匠・戸田先生
|
色は褪(あ)せ
力は抜けし
吾(わ)が王者
死すとも残すは
君が冠(かんむり)
師匠・戸田先生
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1951. 3. 9 (昭和26年) | 同信用組合が、組合員
全員の決議により解散。 |
1951. 3.11 (昭和26年) | 同信用組合が登記上 解散。 |
1951. 3.11 (昭和26年) | 神田 | 臨時総会(教育会館) |
1951. 3.17 (昭和26年) | 戸田先生宅で、聖教新聞発行に関する打ち合わせ企画会 |
1951.4. (昭和26年) | 北京 |
周恩来総理が、「準備中の敦煌(とんこう)文物展覧会」 (故宮(こきゅう))を訪問。 常書鴻氏(敦煌研究院名誉院長)の手を取り、労をねぎらう。
私たちはこれら古代の文化を、生命を大切にするのと同様に、
大事に保存していかなくてはなりません。
中国の革命指導者 周恩来総理
|
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1951.4.20 (昭和26年) | 日本 |
機関紙「聖教新聞」創刊。(旬刊2ページ建て) |
1951.5. (昭和26年) | 富士短期大学の授業が開始される |
1951.5. 3 (昭和26年) |
戸田先生が、第2代創価学会会長に就任
...............。
75万世帯の折伏は、私の手でいたします
...............。
もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、
私の葬式は出してくださるな
...............。
戸田先生
|
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現在も
未来も共に
苦楽をば
分けあう縁(えにし)
不思議なるかな
戸田先生
|
|
1951. 5.12 (昭和26年) |
戸田第2代会長が、「金剛不壊の大車軸」として、創価学会常住御本尊を請願。
春の花
秋の紅葉(もみじ)も
なにかせん
広宣流布(こうせんるふ)に
われは征(ゆ)くなり
戸田先生
|
|
1951. 5.17 (昭和26年) |
東京富士大学・創立者 高田先生が、愛する校内の一室で永眠なされる。
(享年 四十二歳) |
1951. 5.19 (昭和26年) |
日昇上人が、創価学会常住御本尊をしたためられる。 |
1951. 5.20 (昭和26年) |
日昇上人が、戸田先生に「創価学会常住御本尊」を授与。 |
1951. 6. 6 (昭和26年) |
前進
なんと若々
しい、未来を含んだ言葉
であろうか
池田先生
|
前進
この言葉の
中には、成長がある。
希望がある。勇気がある。
若さがある。
正義がある
池田先生
|
|
1951. 6.10 (昭和26年) |
戸田先生のもと「婦人部」が結成。(6.10「婦人部の日」)
(新宿のフランス料理店)(一騎当千の52名の婦人)
白ゆりの
香りも高き
集いかな
心の清き
友どちなれば
戸田先生
|
白ゆりの
香りも高き
婦人部は
平和と勝利の
スクラム世界に
池田先生 (2008年)
|
|
1951. 7.11 (昭和26年) |
戸田先生のもと「男子部」が結成。(7.11「男子部結成記念日」)(180名の男子部員)
今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。
必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。
その方に、心からお祝いを申し上げておきたい
広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります
戸田先生
|
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1951. 7.19 (昭和26年) |
戸田第2代会長のもと「女子部」が結成。(7.19「女子部結成記念日」)(78名の女子部員)
学会の女子部員は、一人のこらず幸福になるんですよ
戸田先生
|
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1951. 7.22 (昭和26年) |
戸田先生のもと「大法弘通慈折(じしゃく)広宣流布大願成就 創価学会常住」の御本尊奉戴式
|
1951. 9. (昭和26年) |
「班長に告ぐ」(青年訓)が発表。
新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。
.........................。
奮起せよ!青年諸氏よ。
戦おうではないか!青年諸氏よ。
.........................。
第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。
しかるに青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして
他人を愛せようか。 その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、
人間革命の戦いである。
.........................。
戸田先生
|
|
1951. 9.8 (昭和26年) | サンフラ ンシスコ |
占領下にあった日本は、「サンフランシスコ講和条約」に調印。
|
1951.12. (昭和26年) |
一度(ひとたび)は
捨つる命ぞ
恐れずに
仏の敵を
一人あますな
戸田先生
|
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1952.1. (昭和27年) |
友どちの
集いも堅き
学会は
折伏行の
王者なりけり
戸田先生
|
いざ往(ゆ)かん
月氏(がっし)の果てまで
妙法を
拡(ひろ)むる旅に
心勇みて
戸田先生
|
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1952. 1. (昭和27年) | 東京 |
池田先生が蒲田支部幹事に就任。 |
1952. 1.29 (昭和27年) | 大田区 |
池田先生が、蒲田支部の緊急組長会に。
(大田区・鵜の木三丁目の集会所) |
1952. 1.末 (昭和27年) | 東京 |
白木義一郎大阪支部長心得が、夜汽車で大阪へ
池田先生が、見送られる。 |
1952. 2. (昭和27年) | 東京 |
戸田先生が、「地球民族主義」の理念を提唱。(青年部研究発表会) |
1952. 2. (昭和27年) | 東京 |
蒲田支部が「201世帯」の折伏を達成 |
1952. 2.17 (昭和27年) | 西成 |
大阪の初代支部長・白木義一郎さんの折伏の第1号が決まる |
1953. 4. (昭和27年) |
「サンフランシスコ講和条約」が発効。日本の独立が回復。
|
1952.4.28 (昭和27年) |
「日蓮大聖人御書全集」が、創価学会により発刊(昭和27年4月28日)。
祝賀の集いで、師匠・戸田先生と弟子・池田先生が「大楠公」の歌の舞を舞われる。
|
青葉茂れる桜井の(大楠公)
作詞 : 落合直文
作曲 : 奥山朝恭
|
1.
青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍(しの)ぶ鎧(よろい)の袖の上に
散るは涙かはた露か
2.
正成(まさしげ) 涙(なみだ)を打ち払い
我子(わがこ) 正行(まさつら) 呼び寄せて
父は兵庫に赴(おもむ)かん
彼方(かなた)の浦(うら)にて討死(うちじに)せん
いましは ここ迄(まで)来(きつ)れども
とくとく帰れ 故郷(ふるさと)へ
3.
父上(ちちうえ) いかに のたもうも
見捨(みす)てまつりて われ一人
いかで帰らん帰られん
此(この) 正行(まさつら)は年(とし)こそは
未(いま)だ若(わか)けれ 諸共(もろとも)に
御共(おんとも)仕かえん死出(しで)の旅
|
|
|
|
1952. 5. 3 (昭和27年) | 東京 |
師匠・戸田先生が出席されて、弟子・池田先生ご夫妻の結婚式 「大楠公」の歌を合唱 |
1952. 5. 8 (昭和27年) | 東京・ 市ヶ谷 | 「戸田大学」の早朝講義が開始。 |
1952. 5.23 (昭和27年) | 大阪・ 西成区 |
大阪支部初の座談会 |
1952.秋 (昭和27年) | 戸田先生のもと 華陽会(かようかい)結成
華のように美しく、太陽のように誇り高くあれ
戸田先生
|
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2009年3月4日 池田先生が出席されて、「広布第2幕 第14回全国青年部幹部会」
「全国壮年部幹部会」の意義を込めた、 「新時代第27回本部幹部会」「第33回SGI総会」 (東京牧口記念会館)
池田華陽会歌 「華陽の誓い」が発表
|
創価学会学会歌
作詞 : 池田華陽会有志
作曲 : 深見麻悠子
歌詞 :
1.
今 師(し)とともに 太陽の心で
厳(きび)しき冬にも 春の光彩(ひかり)を
先生(ちち)の励(はげ)まし わが胸(むね)光(ひか)らせ
「広宣の華(はな)と舞(ま)え! 池田華陽会」
2.
今 師とともに 華(はな)の心で
涙(なみだ)の友にも 笑顔(えがお)咲かせよう
奥様(はは)の微笑(ほほえ)み わが胸包(つつ)みて
「希望の華と舞え! 池田華陽会」
3.
今 師とともに 正義の心で
世界の女性(とも)に 平和の世紀を
華陽の姉妹(しまい)と スクラム楽しく
「使命の華と舞え! 池田華陽会」
報恩(ほうおん)の「華陽の誓(ちか)い」喜(よろこ)び果(は)たさむ
|
華陽会
広布の女子部の
先駆たれ
価値ある青春
三世の功徳と
池田先生
(2009年)
|
|
華のよう
朝日のようにと
華陽会
恩師も見つめん
深き誓いを
池田先生
(2009年)
|
|
|
1952. 8.14 (昭和27年) | 関西 |
池田先生が、特急「つばめ」で大阪へ。
(関西・師弟原点の日)(堺・師弟常勝の日)
堺市内の座談会に出席。
(池田先生 24歳)
あの淀川を渡る鉄橋付近で見つめた、
夕暮れの大阪城の威容は、
今も心から消え去ることはない
池田先生
|
私は、ここ大阪に、東京と並ぶ、否、それ以上の "広宣流布の大城" を築くために
師の戦いを一人、陰で支え抜くと決めていた。
池田先生
|
|
1952.8.15 (昭和27年) | 大阪 |
戸田第2代会長が、出席されて「仏教大講演会」
(旧大手前会館)(大阪市中央区) |
1952.8.16 (昭和27年) | 大正区 |
師匠・戸田先生と弟子・池田先生が、師弟で臨まれた最初の関西の座談会
(大阪市大正区)
|
1952.10. (昭和27年) | 戸田第2代会長が、創価学会による「月例登山会」をスタート (1991年迄 延べ7,000万人) |
1953. 1. 5 (昭和28年) | 東京 |
師匠・戸田先生が出席されて、新年会(都内の中華料理店)
弟子・池田先生が、青年たちとともに「星落秋風五丈原」の歌を披露
|
星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)
作詞 : 土井晩翠
作曲 : 不詳
|
1.
祁山悲愁(きざんひしゅう)の風更(かぜふ)けて
陣雲暗(じんうんくら)し五丈原(ごじょうげん)
零露(れいろ)の文(あや)は繁くして
草枯れ馬は肥(こ)ゆれども
蜀軍(しょくぐん)の旗(はた)光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病(じょうしょうやまい)あつかりき
丞相病あつかりき
2.
夢寐(むび)に忘れぬ君王(くんのう)の
いまはの御(み)こと畏(かしこ)みて
心を焦(こ)がし身をつくす
暴露(ばくろ)のつとめ幾とせか
今(いま)落葉(らくよう)の雨(あめ)の音(おと)
大樹(たいじゅ)ひとたび倒(たお)れなば
漢室(かんしつ)の運(うん)はたいかに
丞相病あつかりき
3.
四海(しかい)の波瀾(はらん)収(おさ)まらで
民(たみ)は苦(くるし)み天は泣(な)き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立てことごとく
中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病あつかりき
4.
嗚呼南陽の旧草廬
二十余年のいにしへの
夢はたいかに安かりし
光を包み香をかくし
隴畝に民と交れば
王佐の才に富める身も
ただ一曲の梁歩吟
丞相病あつかりき
5.
成否(せいひ)を誰(た)れか あげつらふ
一死(いっし) 尽くしゝ身(み)の誠(まこと)
仰(あお)げば銀河(ぎんが) 影(かげ)冴(さ)えて
無数(むすう)の星斗(せいと) 光(ひかり)濃(こ)し
照(てら)すやいなや英雄(えいゆう)の
苦心孤忠(くしんこちゅう)の胸(むね)ひとつ
其(その) 壮烈(そうれつ)に感(かん)じては
鬼神も哭(な)かむ秋の風(かぜ)
6.
嗚呼(ああ)五丈原秋の夜半(よわ)
あらしは叫び露は泣き
銀漢清く星高く
神秘の色につゝまれて
天地微(かす)かに光るとき
無量の思齎(もた)らして
千載(せんざい)の末(すえ)今(いま)も尚(なお)
名(な)は かんばしき諸葛亮(しょかつりょう)
名はかんばしき諸葛亮
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1953. 1.2. (昭和28年) | 東京 |
池田先生が男子青年部「第一部隊長」に。 |
1953. 4. 2 (昭和28年) | 関西 |
戸田第2代会長のもと関西婦人部 発足。 |
1953. 4.20 (昭和28年) | 東京 |
池田先生が文京支部長代理に。 |
1953. 6.14 (昭和28年) | 大阪 |
戸田第2代会長が出席されて、第1回大阪支部総会(夕陽ケ丘会館) |
1953.11.13 (昭和28年) | 東京 |
創価学会本部が、西神田から新宿区信濃町に移転 |
1953.12.12 (昭和28年) | 中部 |
池田先生が、中部の地へ。(12.12「中部広布原点の日」) |
1954. 3.01 (昭和29年) | 北太平洋ビキニ環礁 水爆実験 (アメリカ)
( TNT火薬に換算した爆発力:1,500万トン(15メガトン) )
昭和20年の広島、長崎に落とされた原子爆弾:2万トン(0.02メガトン)
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第2次世界大戦に消費された火力:7メガトン
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ビキニ環礁の東方160キロのところで、マグロ漁の最中の 第五福竜丸(ふくりゅうまる)(99トンの小型木船)が被災
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1954.3.30 (昭和29年) | 日本 |
池田先生が、青年部の室長に就任
(池田先生:26歳) |
1954.8. (昭和29年) | 厚田村 |
師匠・戸田先生と弟子・池田先生が、厚田村へ。
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創価学会学会歌
厚田村
作詞 : 山本伸一
作曲 : 杉野泰彦
歌詞 :
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北海凍(ほっかいこお)る 厚田村(あつたむら)
吹雪(ふぶき)果(は)てなく 貧(まず)しくも
海辺に銀の 家ありき
これぞ栄えある わが古城
春夏詩情の 厚田川
鰊の波は 日本海
松前藩主の 拓きしか
断崖屏風(だんがいびょうぶ)と 漁村庭(ぎょそんにわ)
少年動かず 月明かり
伝記と歴史の 書を読みて
紅顔可憐に 涙あり
正義の心の 鼓動楽
痛まし針の 白髪に
不正に勝てと アツシ織る
母の祈りに 鳳雛も
虹を求めて 天子舞
暖炉に語りし 父もまた
網をつくろい 笑顔皺
権威の風に 丈夫は
征けと一言 父子の譜
厚田の故郷 忘れじと
北風つつみて 美少年
無名の地より 世のために
長途の旅や 馬上行
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1954.12.13 (昭和29年) | 日本 |
池田先生が、渉外部の初代部長に就任 |
1955. 1. 1 (昭和30年) | 日本 |
妙法の
広布の旅は
遠けれど
共に励まし
共々に征かなむ
戸田先生
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1955. (昭和30年) | バンドン |
第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
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1955.3. (昭和30年) | 京都 |
「威風堂々の歌」が誕生。(京都地区歌として誕生)
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創価学会学会歌
威風堂々の歌
作詞 : 大橋幸栄
作曲 : 不詳
歌詞 :
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①
濁悪(じょくあく)の此の世行く 学会の
行く手を阻むは 何奴(なにやつ)なるぞ
威風堂々と 信行たてて
進む我らの 確信ここに
②
今日もまた明日もまた 折伏の
行軍進めば 血は湧き上がる
威風堂々と 邪法を砕き
民を救わん 我らはここに
③
我ら住む日本の 楽土見ん
北山南河は邪宗の都
威風堂々と 正法かざし
駒を進めば 草木もなびく
駒を進めば 草木もなびく
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昭和31年8月 京都地区が、京都支部に。「威風堂々の歌」が、「京都支部歌」となる。
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昭和33年 池田先生が、作詞者の了解を得て「『平安』の『洛土』」との歌詞を「『日本』の『楽土』」と手直しを。
「威風堂々の歌」が、京都の歌から日本の歌に。
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1955. 3.11 (昭和30年) |
小樽 | 小樽問答(小樽市公会堂) |
1955. 4. (昭和30年) |
日本 | 地方選挙で創価学会の推薦候補が53人当選 |
1955. 5.27 (昭和30年) | 沖縄 | ヘレン・ケラー女史が、沖縄を訪問。 |
1955. 7.09 (昭和30年) | ロンドン | ラッセル=アインシュタイン宣言 |
1955.10.01 (昭和30年) | 日本 |
「青年よ国士たれ」(国士訓)が発表。
........................。
かかるときにおちいりやすき考えは、
われらは宗教家であるとの錯覚である。
われらは決して宗教家であってはならぬ。
........................。
青年よ、一人立て!
二人は必ず立たん、
三人はまた続くであろう。
かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである。
........................。
戸田先生
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1955.11. 3 (昭和30年) |
獅子王の
雄叫び聞いて
奮い起つ
広布の旅の
子等ぞ勇まし
戸田先生
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三類の
強敵あれど
獅子の子は
広布の旅に
雄々しくぞ立て
戸田先生
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1955.11.8 (昭和30年) | 日本 |
青年を、窒息(ちっそく)させてゆく社会、機構、制度。
誠実な青年が、実力に応じて、栄進(えいしん)できぬ、本末顛倒(てんとう)の社会
指導者も悪い。社会も悪い。而(しか)し、それらをおしのけて起(た)ち上がらぬ、青年も悪い。
この解決が、今、吾等(われら)が実践している一日一日なのである。
頑張れ、青年部
- 池田先生の日記より -
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1955.11. (昭和30年) | 水爆実験 (ソ連) |
1955.12.1 (昭和30年) | アラバマ州 モンゴメリー |
1人の黒人女性(アメリカの「バス・ボイコット」運動の発端 公民権運動の母 ローザ・パークス氏)
が、「席を立て」と言う白人運転手の命令を拒み逮捕される
「バス・ボイコット運動」が始まる。
私たちは、強くありつづけなければなりません。
希望を捨ててはいけません
そうすれば、きっと打ち勝つことができます
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私は、自分を、不正と戦った人間として、また、若い世代によりよい世界がくることを望んだ人間として人々から
覚えていてもらいたいと思っています。
-----------------------------------
そして、私の闘いは続きます。
抑圧されている人がいる限り.................。
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(高橋朋子訳「勇気と希望」(サイマル出版会)
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1955.12.13 (昭和30年) | 関西 |
戸田第2代会長のもと、関西本部の落成入仏式
「大法興隆所願成就」の関西常住の御本尊がご安置
大法興隆所願成就
授与之創価学会関西本部安置 願主戸田城聖
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1956.1.1 (昭和31年) |
雲(くも)の井(い)に
月(つき)こそ見んと
願(ねが)いてし
アジアの民(たみ)に
日(ひかり)をぞ送(おく)らん
戸田先生
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1956. 2.11 (昭和31年) |
関西に
今(いま)築きゆく
錦州城(きんしゅうじょう)
永遠(とわ)に崩すな
魔軍抑えて
弟子・池田先生
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我が弟子が
折伏行で
築きたる
錦州城を
仰ぐうれしさ
師匠・戸田先生
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1956. 4.16 (昭和31年) | 四条畷市 |
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1956. 5. (昭和31年) | 水爆投下実験 (アメリカ) |
1956. 5. 1 (昭和31年) | 東京 |
4月度創価学会本部幹部会(豊島公会堂)
大阪支部:9,002 世帯が新しく入会
蒲田支部:3,401 世帯が新しく入会
堺支部 :1,111 世帯が新しく入会
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1956. 5. 2 (昭和31年) | 大阪 |
阿倍野地区決起大会 (中之島・大阪市中央公会堂)
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1956. 5.31 (昭和31年) | 東京 |
5月度創価学会本部幹部会(豊島公会堂)
大阪支部:11,111 世帯が新しく入会
蒲田支部: 4,050 世帯が新しく入会
堺支部 :1,515 世帯が新しく入会
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1956. (昭和31年) | 関西 | 池田先生とともに、民衆勝利の金字塔(池田先生:28歳)
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1956. 6.5 (昭和31年) | 大東市 |
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1956. 7.8(日) (昭和31年)
| 大阪 |
第4回参議院議員選挙 投票日
(午後6:00投票締め切り)
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関西本部の電話が鳴る。(朝5時頃) 池田先生が受話器を取られる。
(師匠・戸田先生からの電話)
| 戸田先生(師匠) | 「なんだ大作、もう起きていたのか?」 |
| 池田先生(弟子) | 「はい。」 |
| 戸田先生(師匠) | 「関西はどうだい。」 |
| 池田先生(弟子) | 「こちらは勝ちます。!」 |
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.......................。午後六時の投票締め切りを受け、立花仁六宅では集計に追われていた。
ようやく報告を終わり、立花は住み込みの従業員たちと夕食を取り始めた。......................。
池田室長が、白木義一郎や地区部長を連れてねぎらいに来てくれた。......................。
「みんな、本当にありがとう。勝たせてもらった。勝たせてもらったよ。」立花はきょとんとした。
「あれ、室長、開票は明日でっせ。そんなん分かりまへんがな」 室長の目は、自信に満ちていた。............。
「 若き指導者は勝った 池田大作 ― その行動と軌跡」 より
|
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1956. 7. 9 (昭和31年) | 日本 |
参議院議員選挙で3人当選。
参議院大阪地方区 白木義一郎氏(初代大阪支部長)が
次点に四万余りの大差をつけ、第三位で当選。
(218,915票)
「"まさか"が実現」
大阪中の人をアッといわせてすべり込んだ 白木義一郎氏
「『まさか』といっていたその "まさか" が現実になった。これはどういうことなんだろうか。
.....................」
1956. 7. 9 朝日新聞大阪本社版夕刊
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1956.7.22 (昭和31年) | 日本 |
富士鼓笛隊 結成 |
1956.9.23 (昭和31年) | 東京 |
戸田第2代会長のもと 第3回「若人(わこうど)の祭典(さいてん)」 |
1956.10.9 (昭和31年) | 山口県 |
池田先生が、午前7時前下関駅に到着。(山口開拓指導) |
1957. 1. 1 (昭和32年) |
荒海(あらうみ)の鯱(しゃち)にも
似(に)たる
若人(わこうど)の
広布(こうふ)の集(つど)い
頼(たの)もしくぞある
戸田先生
|
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1957. 1.26 (昭和32年) | 広島 |
池田先生が「山口開拓闘争」の帰途、広島地区総決起大会に出席。 |
1957. 2.25 (昭和32年) | 日本 |
岸 信介(のぶすけ) 内閣総理大臣就任 |
1957. (昭和32年) | 日本 | インドのネルー首相 来日 |
1957. 2. (昭和32年) |
いざや起て
いざや築けと
金の城
中部の堅塁
丈夫勇みて
弟子・池田先生
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いざや征け
仏の軍は
恐れなく
中部の堅塁
立つは楽しき
師匠・戸田先生
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1957. 5.19 (昭和32年) | 東京 | 炭労の全国大会で、「新興宗教対策について」の行動方針が決議(港区の中労委会館)
炭労は5月の17回大会で、創価学会は労働者の団結を破壊し、会社側の政策を有利にする
だけであるとして、これを排除する方針をうちだした。
(夕炭労発行の創立20周年『労働組合史』)
|
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1957. 6. 6 (昭和32年) | 夕張 |
創価学会・夕張男子部が、デモ行進 |
1957. 6.28 (昭和32年) | 北海道 |
池田先生が、北海道へ。 |
1957. 6.30 (昭和32年) | 東京 |
戸田先生のもと「学生部」結成(麻布公会堂) |
1957. 7. 1 (昭和32年) | 札幌 |
札幌大会(炭労への抗議大会) |
1957. 7. 2 (昭和32年) | 夕張 |
夕張大会(炭労への抗議大会) |
1957. 7. 3 (昭和32年) 午後7時 | 大阪 |
池田先生が、無実の公職選挙法違反の容疑で不当に逮捕される。 |
1957. 7.12 (昭和32年) | 東京 |
戸田第2代会長のもと、東京大会 |
1957. 7.17 (昭和32年) | 大阪 |
無実の公職選挙法違反の容疑で不当に逮捕された池田青年室長が、大阪拘置所を出所。
戸田第2代会長のもと、大阪大会(中之島・大阪市中央公会堂)
 (2009年)
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1957.7.下旬 (昭和32年) | 群馬・渋川市 |
池田先生ご夫妻が、渋川で座談会に出席。(文京支部保土ケ谷地区の班長宅) |
1957. 7. (昭和32年) | カナダ | 第1回 パグウォッシュ会議 開催
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1957. 8.7 (昭和32年) | 荒川区 |
池田青年室長が、荒川区へ。 |
1957. 8. (昭和32年) | ICBM(大陸間弾道弾)ミサイル実験 (ソ連) |
1957. 9.08 (昭和32年) | 横浜 |
戸田城聖創価学会第2代会長「原水爆禁止宣言」を発表 「若人の祭典」(三ツ沢競技場)
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1957.11. 2 (昭和32年) | 田辺市 | 南部・白浜・新宮三地区合同の指導会に池田先生が出席
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1957.12.25 (昭和32年) | 池袋 |
12月度本部幹部会(豊島公会堂)
会員世帯 75万世帯を達成。七十六万五千世帯に及ぶ。
学会の永遠の三指針
一、一家(いっか)和楽(わらく)の信心
二、各人(かくじん)が幸福(こうふく)をつかむ信心
三、難(なん)を乗(の)り越(こ)える信心
戸田先生
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学会永遠の五指針
一、一家(いっか)和楽(わらく)の信心
二、各人(かくじん)が幸福(こうふく)をつかむ信心
三、難(なん)を乗(の)り越(こ)える信心
四、健康長寿の信心
五、絶対勝利の信心
2003年 池田先生
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1957.12. (昭和32年) |
勝ち負けは
人の生命(いのち)の
常なれど
最後の勝(かち)をば
仏にぞ祈らむ
戸田先生
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1958. 3.16 (昭和33年) | 静岡 |
広宣流布記念の日
戸田先生のご逝去から五十一年。私の胸奥には、今も「大作、大作」と呼ばれる先生の大きな声が聞こえてきます。
師匠からいただいた私の命です。恩師の血脈は、私の生命に厳然と流れ通っています。
巡り来る三月十六日「広宣流布記念の日」。 恩師から、私をはじめ後継の青年門下が正義の印綬をお受けした久遠の儀式の日です。
昭和三十三年(一九五八年)のこの日、戸田先生は来賓方の前で「創価学会は宗教界の王者である」と、誇り高く師子吼なされました。
これこそ、万代に輝く学会の不滅の魂であります。この大正義と大確信を、私は一人、まっすぐに受け継ぎ、世界へ堂々と宣揚し、
証明してまいりました。
さあ、次の五十年へ、新しき広宣流布の大舞台の開幕です。
わが頼もしき門下たちよ!
元初の生命を燃え上がらせながら、師弟勝利の大旗を高らかに掲げゆこう!
我も師子
君も師子たれ
師弟不二
- 池田名誉会長講義「御書と師弟」第8回「如我等無異と報恩」より -
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1958. 4. 2 (昭和33年) | 東京 | 戸田城聖第2代創価学会会長 一切の願業を成就し逝去 |
1958.4.8 (昭和33年) |
恩師去り
創価の学会
いかなるか
われは厳然
広布の指揮執る
池田先生
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1958. 5. (昭和33年) | 東京 |
池田先生が「七つの鐘(かね)」の構想を発表。(本部総会)
(「七つの鐘」構想は、学会が創立(昭和5年)以来、7年ごとに '節(ふし)'を刻み、発展してきたことから、
7年を「一つの鐘」の期間として、広宣流布の歩みと構想を示したもの。七つの鐘が鳴り終わる 昭和54年までの
前進の展望を示した。)
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1958. 6.30 (昭和33年) | 日本 |
池田先生が、総務に就任。 |
1958. 6. (昭和33年) | 九州 |
創価学会第2回九州総会
創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この
関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げてゆく、これが一番肝心なことだと思う。
今日の創価学会の強い信仰は一切そこから出てくる。
戸田先生が教えられたことはこれが要(かなめ)であろうと思っております。師を信じ、弟子を導く、
この関係、これに徹すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります。
日淳上人
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1958. 7.20 (昭和33年) | 佐渡 | 池田総務が、「おけさ丸」に乗り佐渡へ |
1958.11.16 (昭和33年) | 熊本 |
池田先生が、熊本の地を初訪問。熊本支部の結成。 |
1959.1.16 (昭和34年) | 旭川 |
池田先生が、旭川の地を初訪問。御書講義や質問会を開催。 |
1960. 1. (昭和35年) | フェニックス | 世界詩歌協会 創立 |
1960. 4. 5 (昭和35年) | 東京 | 池田先生ご夫妻が、現在の小平市たかの台を訪問。創価学園の建設予定地を視察 |
1960. 5. 3 (昭和35年) | 東京 |
武蔵野支部 結成 |
1960. 5. 3 (昭和35年) | 東京 |
池田先生が第3代創価学会会長に就任
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1960. 5. 8 (昭和35年) | 大阪 |
池田第3代会長をお迎えして「関西総支部幹部会」
(大阪府立体育会館)
池田会長が、岸和田支部・和歌山支部・尼崎支部・布施支部・浪速支部・西成支部・阪神支部・淀川支部・都島支部
西宮支部の10支部に支部旗を授与。
従来の大阪支部・堺支部・松島支部・船場支部・梅田支部・京都支部・平安支部・京洛支部と合わせて18支部からなる
関西総支部が意気軒高に船出。
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1960. 5. 9 (昭和35年) | 東京 |
池田第3代会長が出席されて「女子部幹部会」
(東京・台東体育館)
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1960.7.13 (昭和35年) | 沖縄 |
池田先生が沖縄の地を初訪問 |
1960.10. 1. (昭和35年) | ハワイ |
池田会長がホノルル空港に到着。(午後11時すぎ)(日本との時差:マイナス19時間) |
1960.10. 2. (昭和35年) | 日本 |
池田会長が、羽田の空港からハワイヘ出発。(午前10:40)(日本との時差:マイナス19時間)
(「世界平和の日」) |
1960.10. (昭和35年) | ワシントンDC |
池田先生が「リンカーン記念堂」を訪問 |
1960.10. (昭和35年) | ブラジル |
池田先生がアメリカからブラジルヘ。 |
1961. 1.28 (昭和36年) | 香港 |
池田大作創價學會第三任會長第一次訪問香港 香港國際創價學會 |
1961. 2.11 (昭和36年) | カンボジア | 池田先生が、 アンコール・ワットを訪問 |
1961. 3. 7 (昭和36年) | 大阪 |
関西男子部幹部会に池田会長が出席(中之島・大阪市中央公会堂) |
1961. 3. 7 (昭和36年) | 大阪 |
池田先生が出席されて関西女子部幹部会(大手前会館) |
1961. 3. 8 (昭和36年) | 大阪 | 関西3総支部合同幹部会に池田会長が出席(大阪市中央体育館) |
1961. 4.12 (昭和36年) | 宇宙 |
ユーリー・ガガーリン少佐の乗ったボストーク1号が、世界初の有人宇宙飛行に成功。 |
1961. 9.16 (昭和36年) 午前9時40分 | 日本 |
「第2室戸台風」が、高知の室戸岬に上陸(最大風速 66.7m、死者 194人、負傷者 4,000人超、
浸水家屋 38万戸、高潮により大阪市の31平方キロメートルが浸水) |
1961. 9.22 (昭和36年) | 大阪 |
池田会長が、西淀川区を訪問。被災した同志を激励。 |
1961.10. 4 (昭和36年) |
池田会長一行(いっこう)が、東京国際空港から北極回りでヨーロッパへ出発。 |
1961. 10. 8 (昭和36年) | ベルリン |
池田会長が ベルリンを訪問
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1961.10.15 (昭和36年) | スペイン |
池田会長が、スペインを初訪問(10.15「スペイン師弟原点の日」) |
1961.11. 5 (昭和36年) | 東京 |
池田先生のもと「第10回男子部総会」(千駄ヶ谷 国立競技場)(男子部の日)
全国の男子部の代表10万人が結集 |
1961.11.20. (昭和36年) | 宮城県 仙台市 |
「東北健児(けんじ)の歌」が発表。東北本部(現・榴ケ岡文化会館)落成式
池田先生が「全国で歌っていこう」と提案されて、学会歌「新世紀の歌」に。
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創価学会学会歌
新世紀の歌
作詞 : 佐々木政俊
作曲 : 上田金治郎
歌詞 :
|
①
ひらけゆく大空に 舞う若鷲(わかわし)
日本の柱 師(し)のもとに
苦悩(くのう)にあえぐともどちを
救わん地涌(じゆ)の誇りもて
②
荒海に躍る鯱(しゃち) 轟(とどろ)く大号令
七つの海を征くところ
世界を結ぶ大偉業
進まん今ぞ意気高く
③
師子王の雄叫びは 大地ゆるがす
広宣流布の大進軍
破邪顕正の剣もて
築かんわれら新世紀
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1961.11.21 (昭和36年) | 青葉城址 |
人材の
城を築けと
決意ます
恩師の去りし
青葉に立つれば
池田先生
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1961.11.12 (昭和36年) | 横浜 |
池田会長のもとへ全国から8万5,000人の代表が集い「第9回女子部総会」(11.12 女子部の日)
(三ツ沢競技場) |
1961.11.27 (昭和36年) | 日本 |
「公明政治連盟」が結成 |
1962. (昭和37年) | 童画家 ブライアン・ワイルドスミス氏が、ケイト・グリーナウェイ賞 受賞 |
1962. 1.24 (昭和37年) | 尼崎市 |
池田会長が出席されて関西男子部幹部会(尼崎市体育会館) |
1962. 1.25 (昭和37年) | 大阪 |
池田先生の無罪判決の日(1.25「関西婦人部の日」)
(大阪事件の第84回公判)(大阪地方裁判所) |
1962. 1.26 (昭和37年) | 日本 |
「公明政治連盟の結成」が発表(本部幹部会) |
1962. 1.27 (昭和37年) | 日本 |
東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)が発足 |
1962. 1.29 (昭和37年) | 中東 |
池田会長が初の中東訪問へ |
1962. 2.8 (昭和37年) | エジプト カイロ |
池田先生のもとに「控訴なし」の電報が届く |
1962.8.30 (昭和37年) | 日本 |
池田第3代会長が、学生部の代表に「御義口伝」の講義を開始
(毎月1回、約5年間)
(その間、関西では「百六箇抄」、中部では「諸法実相抄」の池田会長による講義が行われる)
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1963.10.18 (昭和38年) | 日本 |
池田第3代会長が、 (財)民主音楽協会を設立
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1962.11. (昭和37年) | 日本 |
会員世帯数が300万世帯に。 |
1963. (昭和38年) | プーミポン国王が、日本を御訪問。 |
1963. 9. (昭和38年) | 信濃町 |
日中友好の先駆者で実業家の高崎達之助氏と池田先生が会談(創価学会本部)
(高崎達之助氏 78歳 池田先生 35歳) |
1964. (昭和39年) | 中国が、核実験に成功 |
1964.春 (昭和39年) | 正本堂建立計画の発表。正本堂建設委員会が発足。池田先生が委員長に。 |
1964.5.12 (昭和39年) |
池田会長がオーストラリアへ。(初のオセアニア訪問) |
1964. 6. 1 (昭和39年) | 池田会長の構想に基づく「高等部」の設置が発表(東京・台東体育館での男子部幹部会) |
1964. 6. 7 (昭和39年) |
高等部結成式(東京の各本部)
旧・東京第2本部の結成式に池田会長が出席。 |
1964.6.30 (昭和39年) |
池田第3代会長が 『創価大学設立構想』を発表
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1964.7.2 (昭和39年) | アメリカ |
ジョンソン大統領政権で、公民権法が制定。法律上の「人種差別」がなくなる。
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1964. 8.30 (昭和39年) | 吹田 | 池田先生をお迎えして吹田会館の開館式 |
1964. 8.30 (昭和39年) | 松原 | 松原会館の開館式に池田会長が出席 |
1964.11.17 (昭和39年) | 日本 |
公明党結成大会 |
1964.12.02 (昭和39年) |
池田第3代会長が 小説『人間革命』の執筆を開始 (沖縄) 沖縄創価学会
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『人間革命』主題:
一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の
転換をも可能にする
『人間革命』冒頭: 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。」
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1965. 1. 1 (昭和40年) | 日本 |
池田会長の小説「人間革命」第1巻が連載開始 (「聖教新聞」当時・週3回刊8ページ建て) |
1965. 1.15 (昭和40年) | 日本 |
中等部 結成 |
1965. 7.15 (昭和40年) | 日本 |
聖教新聞が、日刊8ページ建てに。
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1965. 9.23 (昭和40年) | 日本 |
少年部 結成
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1966.01.03 (昭和40年) | 静岡 |
高等部、中等部、少年部の代表 3,300人が、池田先生とともに記念撮影、2度にわたり勤行会
池田会長が学会歌の指揮を。5年後の再会を提案。
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1966. 1. 8 (昭和41年) | 鎌倉 | 池田会長 佐藤栄作総理 会談 |
1966.3.5 (昭和41年) | 日本 |
壮年部 結成 |
1966. 3.16 (昭和41年) | ドミニカ |
ドミニカ共和国に初の支部が結成 |
1966.春 (昭和41年) | 豊中市 | 豊中会館が開館。 |
1966.5.5 (昭和41年) | 日本 |
「富士少年合唱団」「希望少女合唱団」が結成。(富士少年希望少女合唱団の前身) |
1966.5.17 (昭和41年) | 東京 |
池田会長が、作家・有吉 佐和子さんと会談(婦人月刊誌の対談企画)
(池田先生:38歳 有吉 佐和子さん:35歳) |
1966. 9.16 (昭和41年) | 西宮 |
池田先生のご出席のもと「関西文化祭」(雨の甲子園球場) |
1967.10.30 (昭和42年) | 信濃町 |
池田大作創価学会第三代会長 クーデンホーフ・カレルギー伯爵会談
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池田大作/リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー (欧州統合の父) 共著
文明 西と東 1972年 サンケイ新聞社
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1967.11.10 (昭和42年) | 東京 | 佐藤栄作首相 アーノルド・トインビー博士 会見
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1967.11.11 (昭和42年) | 赤羽台 | アーノルド・トインビー博士が、赤羽台団地で1DKから3LDKのタイプ5家庭を訪問
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1968. 4.1. (昭和43年) | 東京 |
創価中学校・高等学校が男子校として開校
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1968. (昭和43年) | ローマ |
アウレリオ・ペッチェイ博士が、天然資源の無駄使い、人口爆発、環境破壊などによる人類の危機を回避するため、世界各国の学識者や経営者らに
呼びかけ、初会合を開催。ローマクラブ が発足。 |
1968. 4. (昭和43年) | 東京 |
創価学園創立者の池田会長が、創価学園 栄光寮を訪問。
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1968. 6.14 (昭和43年) | 町田市 |
池田会長が、町田会館(現・町田婦人会館)を初訪問
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1968. 8.31 (昭和43年) | 東京 |
池田会長が出席されて「婦人部幹部会」。 学会歌「今日も元気で」(婦人部愛唱歌)が発表(両国・日大講堂)
創価学会学会歌
今日も元気で
作詞・作曲:渡辺照子
歌詞 :
あかるい朝の 陽をあびて
今日も元気に スクラムくんで
闘うわれらの 心意気
うれしい時も かなしい時も
かわす言葉は
先生 先生 われらの先生
真昼の太陽 身に受けて
汗にまみれて ペダルもかるく
幸せ求める 幾山河
うれしい時も かなしい時も
かわす目と目が
先生 先生 われらの先生
きらめく星を あおぎみて
心に誓う 世紀のいくさ
あすへの希望を かぎりなく
うれしい時も かなしい時も
かわす笑顔に
先生 先生 われらの先生
先生 先生 われらの先生
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1968. 9. 6 (昭和43年) | 東京 |
創価学園1期生500人が、創立者の池田会長とともに校歌「草木は萌ゆる」(当時・寮歌)を合唱。
創価学園 校歌
草木は萌ゆる
草木は萌ゆる
武蔵野の
花の香かぎし 鳳雛の
英知をみがくは
何のため
次代の世界を 担わんと
未来に羽ばたけ
たくましく
小鳥はさざめく
武蔵野の
草に遊びし 鳳雛の
情熱燃やすは
何のため
社会の繁栄 つくらんと
未来に羽ばたけ
意気高く
秋風荒れし
武蔵野の
木間にたたずむ 鳳雛の
人を愛すは
何のため
民に幸せ おくらんと
未来に羽ばたけ
誇り持ち
白雪つみし
武蔵野の
空へ舞いゆく 鳳雛の
栄光めざすは
何のため
世界に平和を 築かんと
未来に羽ばたけ
その雄姿
富士(ふじ)が見(み)えるぞ
武蔵野(むさしの)の
渓流(けいりゅう)清(きよ)き 鳳雛(ほうすう)の
平和をめざすは
何(なん)のため
輝(かがや)く友(とも)の 道(みち)拓(ひら)く
未来に羽(は)ばたけ
君(きみ)と僕(ぼく)
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1968. 9.08 (昭和43年) | 東京 |
池田第3代会長が「日中国交正常化提言」を発表 (第11回学生部総会)
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1968.10. 4 (昭和43年) | 堺 |
「堺本部幹部会」に池田会長が出席。(金岡体育館) |
1968.10.14 (昭和43年) | 岡崎市 |
池田先生をお迎えして、「第1回中部芸術祭」(岡崎市民会館) |
1968.10.19 (昭和43年) | 東京 |
池田会長が、東京・北区の東十条支部・北地区の座談会に出席(北会館)
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1969. 1.31 (昭和44年) | |
池田先生が、自民党の田中角栄幹事長と約2時間にわたり会談。
日中友好の未来について展望 |
| 1969.3.9 | 広島 |
池田先生が、広島の同志5700人と記念撮影 |
| 1969.(昭和44年) | 中ソ国境 紛争勃発 |
| 1969.(昭和44年) | マニラ | 第1回「世界詩人会議」開催 |
1969. 9.23 (昭和44年) | 東京 |
アーノルド・J・トインビー博士から、池田先生へ手紙が届く |
1969.12.20 (昭和44年) | 東大阪 |
池田会長が、高熱をおして「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を。 (東大阪市中央体育館)(現・東大阪アリーナ) |
1969.12.21 (昭和44年) | 和歌山 |
池田会長が、高熱をおして和歌山へ。渾身の指導、「武田節」の指揮を。 |
1970. (昭和45年) | 東京 | クーデンホーフ・カレルギー伯爵が、東京・創価学園を訪問。 |
1970.2. (昭和45年) | 日本 |
会員世帯数が750万世帯に。 |
1970. 3. (昭和45年) | カンボジア | クーデター。 |
1971.1. (昭和45年) | 日本 |
五年会 結成
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1971.2.1 (昭和46年) | 日本 |
牙城会 結成
.............。戸田先生は、学会の草創期から、「牙城」という言葉を非常に大事にしておられた。
昭和29年(1954年)2月20日、戸田先生と私は、翌日に控えていた大阪、堺、八女の3支部の総会に出席するため、大阪入りした。
指導を求めて、続々と駆けつけてくる関西の地区部長を前に、戸田先生は言われた。
「関西は東京に次ぐ牙城たれ!」と。
私も『若き日の日記』に、「大阪の牙城」「先生の牙城」など、幾度も「牙城」と綴っている。
「牙城」とは、「大将のいる所」「城の本丸」「戦いの根拠地」という意味である。
「牙旗(がき)を立てている城」である。「牙旗」とは古来、中国で大将のいる所に掲げられた旗のことだ。
猛獣が牙で身を守るという象徴として、旗先に象牙が飾られた。このように、「牙城」には、重要な意義があることを
語り残しておきたい。
池田先生のスピーチより
(2009.3.4)
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1971.4.2. (昭和46年) | 東京 |
創価大学 開学
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1971.4 (昭和46年) | 中国 |
公明党が初訪中
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1971. 6.13 (昭和46年) | 青森 |
池田先生が、青森の同志と記念撮影(青森山田高校の体育館)
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1971. 6.14 (昭和46年) | 青森 |
池田会長が、 奥入瀬渓流を散策。
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1971. 7. 3 (昭和46年) |
滝の如く 激しく
滝の如く 撓まず
滝の如く 恐れず
滝の如く 朗らかに
滝の如く 堂々と
男は
王者の風格を持て
池田先生
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Like the waterfall fierce
like the waterfall unflagging
like the waterfall unfearing
like the waterfall merrily
like the waterfall proudly
a man should have the bearing of a king
Daisaku Ikeda, Songs from My Heart,
Translated by Burton Watson
(New York:Wcathcrhill,Inc.,1978,1997)
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1971. 7. (昭和46年) |
中日友好協会と公明党が、共同で声明を発表
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1971.10. 4 (昭和46年) | 関西 |
池田会長の作詩による長編詩「母」が発表される。(関西婦人部幹部会)
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1972. 3.16 (昭和47年) | 新宿区 | 池田先生が発願主として、大願寺を建立寄進 (創価学会が、建立寄進した356ヶ寺の1つ) |
1972.3.23 (昭和47年) | 信濃町 |
池田先生が、経営の神様・松下幸之助先生と対談
(創価学会本部)
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1972. (昭和47年) | ローマ |
ローマクラブ が「人類の危機」リポート『成長の限界』を発表
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1972. 4.30 (昭和47年) | フランス | 池田先生御夫妻 マリー・キュリーの家を訪問
(キュリー夫人が、1907年~1912年に暮らした 3階建ての赤い屋根の家) |
1972. 5. 5 (昭和47年) | ロンドン |
池田大作創価学会第3代会長 アーノルド・J・トインビー博士 と対談開始
Arnold J. Toynbee and Daisaku Ikeda conducted a series of dialogues in 1972 and 1973.
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